『一万年、後….。』“私たちは卑しい人間なのだ!” 足立正生(映画監督)

これは、楽しいギャグとブラックユーモアに満ちたSF映画であり、星新一と筒井康隆を足して何倍か歪めた教育童話なので、まともに付き合うと観る側の認識が歪み始める。ところで、一万年後の人間の身体には血が流れているのだろうか?いや、その頃にはもう、地球そのものがまともに存在していない筈で、もし温かい皮膚を持って呼吸している生物がいたら、それは地球史と人類史の中から適当にコピーされた幻影で、実は不在証明そのものに違いない。

つまり、この映画には不在者だけが登場する。物語の主人公の少年少女は、人食い怪獣たちに囲まれて生きているのに全く怯えては居ないし、むしろ、両親を食われた生き残りの癖に平気で優等生面をしてしっかりと米を研ぎ洗いして食い、みかんを買いに行く。この、霊界の学芸会を演じているような兄妹の時空間に、宇宙の電磁界の混線で突然闖入した叔父さんが“認識の誤差”という魔を持ち込んでくると、少年少女の妖しさが実像に見え、見ている側も心停止にかかりそうになり始め、童話が実は書き残された神話なんだと悟らされる。

その上、“叔父さん”とやらは、勘定できないくらい昔の曾々々々々爺さんなら分かるが、あくまで現役の叔父さんだと主張する辺りから、真面目に“一万年”とはいうが時間軸そのものもずれ込んでいることが分かり、迷宮に誘い込まれていることを知る。

いや、これ以上、この新しい電波映画の展開を説明するには、もっと精密な電子工学と天文物理学の素養が要るので、私の手には負えない。

ただ、少しだけ素直に付き合えるのは、少女が悪夢にうなされて叫び、少年が何かとすぐ辞典を引いて、昔は“なんでや”というのが「アメリカ」だったこと、“やめとけ”は「映画」だったことなどを割り出すという常識的な行為だ。更に言えば、この叔父さんが、底抜けに親切で人間の孤独の怖さや愛憎の不可解さを話し、自分の生な感情を少年の不感症と比べてみたりすることだ。

そう、この映画の時間である一万年後から観れば、私たちは、霧にけむる孤独な湖のように何も持ち合わせず他を映すだけでのくせに、何かしら生きている証を求めたがる卑しい生き物なのかもしれない。いや、そう思わせるところが、阿藤快の妖しい怪演を手がかりにした、まさに“沖島節”たる諧謔の極みなのである。

(2007年『沖島勲が語る/沖島勲を語る』より転載)