『YYK論争 “永遠の誤解”』絓秀実(文芸批評家)

 いうまでもなく、沖島勲は日本のアンダーグラウンド映画の代表的な作家の一人だが、にもかかわらず、「アンダーグラウンド」という規定に収まるには、どこか居心地の悪さを発散させてきた。それは、大和屋竺や沖島の「盟友」足立正生に比して、そう言えるし、沖島、大和屋、足立を包摂してきた若松孝二と較べても、そうである。沖島の水脈は、若松プロが輩出した荒井晴彦以降の後進にも、うまく継承されていないように見える。それは、沖島が「前衛嫌い」であることと関係しているだろう。

 日本のアンダーグラウンドの特徴を一言で言い表せば、それは「文学的」という一語に尽きる。もとより、それは映画に限らない。演劇にしても舞踏にしても然りである。ところが、沖島は「“文学的映画”程始末に負えないものは無い」ということをモットーに、アンダーグラウンド的(「前衛的」!)環境のただなかにありながら、「反文学的映画」を撮り続けてきた、稀有な存在だといえる。もちろん、沖島の監督作品は『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』(1969年、しかし、どうして「ベティ」ではないのか?)から新作の『一万年、後….。』(2007年)までの、たかだか五本に過ぎないのだが。

 『YYK論争 永遠の“誤解”』(1999年)は、一見すると、「映画についての映画」という、ありふれたメタフィクション的な構造を取っており、その話のバカばかしさからして「筒井康隆的」という評価もあるようだ。確かに、筒井康隆は、若松プロと、その近傍にあった一部の作家・評論家たちにおいて、日本的アンダーグラウンドの有力な参照先であった。しかし、そこには「永遠の“誤解”」があるように思われる。筒井的メタフィクションでは、必ず、「作者」=「前衛」という「メタ言語」が作品の外部に想定されているからだ。ところが、沖島作品にあっては、そのような外部を想定することが、ほとんど不可能である。

 作中で、マザコン源義経(蒲田哲)の幻想が母親・常盤御前(あさいゆきの)と平清盛(松川信)との姦通によって、いとも簡単に破壊されることからも知られるように、この作品のメタフィクション的構造には「メタ言語は存在しない」。義経と兄・頼朝(黒澤正義)との「論争」に割って入る清盛にしても、両者に対して「そうとも言える」かと言えば「そうでもない」と曖昧な立場を取るばかりだし、これら三者(常盤も入れれば四人)の物語を撮っているはずの映画監督(外波山文明)は映画監督で、いったい何が撮りたいのか、いっこうに明らかではない。彼は、ほとんど父権的権力を持たぬ冴えない監督である。しかし彼は、撮影現場を訪ねてきた若い映画評論家(いかにも、そこいらにいそうな)が発する、映画に対するもっともらしいメタ言説に対しては、敢然と、それを批判しにかかる存在でもある。しかも、この映画世界には、突然、「外部」(実際に、アンダーグラウンドから!)からの侵入者(自衛隊!)があらわれては去っていくのだ。

 さまざまな水準の物語は、互いに「永遠の“誤解”」として関係しているばかりである。かつてのアンダーグラウンド芸術が父権=メタ言語への反抗を装いながらも、実は、先行・既成世代(父権!)に対して「理解」を求めていたのとは、この作品はまったく違うのだ。

『YYK論争』は、沖島が、その映画的出発の地であったアンダーグラウンドの徹底的なパロディーである。映画ラストでの「上空」へのユーモラスな憧憬は、「アンダーグラウンド的なもの」を完璧なまでに宙吊りにしている。

(2007年『沖島勲が語る/沖島勲を語る』より転載)