『出張』CHIN-GO!(映写技師)

 とりとめないことごとを、映画『出張』に寄せて。そう、こんな思い出がある。

 ···かつて僕がいったりいかなかったりしていた大学の映画研究会(これにはよくいっていた)にやや奇人変人の類にあたる先輩がいて、とりあえずSさんとしておくが、彼は大学に7年いて、もう卒業というときにホエールウォッチングの旅行にいきたくなり、試をひとつうっちゃってクジラを見にいき、来年は単位ひとつだけのためにのんびり大学きてやるわい、などと言っていたのだが、その旅行のビデオを行った者行ってない者混ざって部室で見ていたら(どこか、高知か九州かの沖は海の青が濃く、ほとんど紺色。クジラはなかなか見えない)Sさんが、おおっ!と言いだして、実は彼は一年休学してバイトに明け暮れていた年があり、その期間も在学とカウントされるのでもう8年大学におり、その年卒業せねば最大在学可能な年限を超えてしまうので自動的に除籍されてしまうのだ。クジラのビデオを見てるうちにそのことに気づいたらしい。除籍されるよりはと、中退届けを出しにいったが、しかし、部室でコーヒーこぼしたときくらいの「しまったなあ」加減なのであった。こういうひとを大人(たいじん)というのであろう。

 ···そのSさんが、ある日突然僕がバイトで映写をしている映画館にやってきた。

「おう、元気しとるか···たしかキミがバイトしとるのはここやと思い出してなー···街におりてくるのも久しぶりやー(←このころすごく山奥に隠棲していたようだ)、映画みるのもひさびさやなー。この映画、おもしろいんか?」

 そのときやっていたのが沖島勲監督の『出張』である。『YYK論争永遠の“誤解”』が公開されたころで、レイトショー枠が旧作特集だったのである。Sさんは、変わり者(名誉のために言っておくが、彼はものすごく頭よかった。ロシア語なんかもかなり堪能、話題も豊富で気さく、顔もなかなか。しかし、かててくわえて、なにか変人、であった。)の常として、きびしい判断基準を持っていた。映画研究会に入るくらいだから映画好きなんだろうが、それは当然、ベタなシネフィル的趣味、なにかの受け売りではない、はっきりした好みだ。···僕自身、沖島勲監督の作品はどれも好きだったが、『出張』はその当時の最新作だった『YYK論争』とおなじくノンジャンルの映画(←フィルモグラフィー他二作に、一応ポルノであらねばならなかったという制約があるのに比して)であって、そのことで荒唐無稽というか、どう展開してどこに行き着くのかがほんとに読めない意外性とひろがりが出ていて、特に気にいっていた。ラストは、あのようなはっきりしたかたちではないにせよ、世の中に確実に在るさまざまな“ゲリラ戦”にエールを送っているととれた。(···『三里塚の夏』や『パルチザン前史』のカメラマン大津幸四郎氏が撮影を務めているのも、いい意味で気になる。どういう経緯でそのスタッフィングになったのか、どういうネライか、現場で大津氏の胸に去来したものは何だったのだろうか。···というようなあとづけの“映画通”っぽい連想が通じないのが、また本来的な一見の、不見転の、映画を観るという行為であるのだが。)(···最近発売・レンタルされているDVDの特典映像の対談(聞き手は高橋洋氏)で、沖島監督は、『出張』の発想のひとつはマリリン・モンロー主演の『バス停留所』、あの予定地でないところで足止めを食らってドラマが始まる感じ、と言っていて、その独自な感性とどこかしらチャーミングな参照先に、ホホウと楽しくなる···これも十数年遅れのあとづけではあるのだが…)

 さて、このSさんは···

 「おう、観たで、おい!おっもしろいなー、コレ。何なんコレ。こんな映画があるんやなー!」

おっしゃ!なら、尋ねてみよう。どういうところがおもしろかったですか?

「そうやなー、きっと監督の世代なんやろうけど、国家とか体制から外れてる人間たちが出てくるのがええな。しかもあんまり説教臭くなく、単にめちゃめちゃ笑えるような感じにしてあるのが軽くてええな。センスあるで。おりゃ全然この監督のこと知らんのやけどよ。石橋蓮司とか原田芳雄とか出とるけど、まるで日本映画じゃないみたいやで、コレ。···なんや元気でてきたわ」

と言ってSさんは山に帰っていった。俗世のキャリアを茫漠とした紺色の海の風景と引き換えた男をすら、きちんと満足させた映画。僕は妙にうれしかった。

 ···そう、沖島勲映画(と監督本人)は、なにか“呼ぶ”のである。Sさんのようなひとをちゃんと呼び寄せるのだ。かく言う僕も呼ばれている、といささか勝手に思っている。···映写バイトしているころに沖島監督作品を全作上映したし、この最新作「一万年、後….。』のプロデューサー山川宗則が「ニュー・ジャック&ヴェティ』の上映会を企てたときも居合わせてお手伝いできた。「映画芸術」という雑誌に初めて映画ライターめいて文章書いたとき隣のページが沖島さんで、あれは自分の未熟さを知るいい勉強になった(ちなみに沖島さんがとりあげていたのは田辺泰志の新作『ロストラブ』『ラッキイラブ』という倉敷でつくられたデジタルシネマで、読むだにめちゃめちゃおもしろそうだった。

山川さん、上映やってください。そして、そういうネタが伝わってくる既成のものではない情報回路をもってること、あと、その文中で、「···同時代の監督で自分に並ぶものはいないと思っていたが、田辺にはかなわんかも」というような書き方をしていて、その自負もすごい)。···そして、またも上映に立ち会うことになった、新作『一万年、後….。』。“意を汲んで“頑張って”観ないといけないような映画だったらどうしよう、と、イヤな心配をしていたが、どうだろうか···。···それは、···よかった!えらいもん観てしまった、というよろこび。かける金の多寡が映画の見応え(のようなもの)に直結しすぎる最近の映画は、どこにつくり手のやる気と創意工夫があるのか!それに反して、閉じきった世界から、全世界、全宇宙、全時間にタッチした『一万年、後….。』は作品の全身がやる気と創意工夫だ。(···『YYK論争』までの四作品DVDが出たときのトークショーにも行った。とても印象深かった。沖島監督は「僕は寡作だし、一作一作つくるのにそれぞれブランクができちゃって、手つきや技術が身につかない。つくりかた毎回忘れちゃう。だから自分の奥深い水脈みたいなものを探り当ててそのたびごとに新鮮に映画つくってる」と語り、わりとおさだまりとして尋ねられる「次回作の構想はありますか?」に、くちあたりのいいあいさつではなく、極めて真剣に、滔々と『一万年、後….。』の構想を語り、そして聴衆はあっけにとられた。だって、いきなり『一万年後….。』のこと聞かされても、これはわかりませんよ···)。それらすべてが、こちらの想像以上のものとして結実してたのだ。···スタイルはそれぞれまるで異なっている沖島作品は、たかだか見えて聞こえるものでしかない映像と音響、映画をつかって不可視なもののなかにズブズブ入っていく方向性、ということでは一貫している。そこでは、いわゆる現実といわれるものが表皮を剥がれ、深奥に達する穴を穿たれる。『一万年、後….。』はいちばんおおきく深くそれをやっている。(···話がずれるが(ずれっぱなしだが)デイヴィッド・リンチの最新作『インランド・エンパイア』を観たときに、まるで「ニュー・ジャック&ヴェティ』まるで『YYK論争』という部分があって、驚いた、というか、納得がいった。受け取られ方が転倒しやすいようなのでさらに言うが、

『インランド・エンパイア』が先駆たる『ニュー・ジャック&ヴェティ』と『YYK論争』の模倣のごとく見えた、ということなのである。こう書けばリンチのファンを動員できるか?···映画の話をする仲間内で、若松プロ系のひとびとを世界的な映画作家にたとえるという、失礼な物言いをよくしていた。それはブランドネーム礼賛ではなく、“世界的”という名のローカルさを凌駕しうる映画作家が日本にいることの確認であり、例を挙げれば、足立正生はまさに60年代ゴダール以上の60年代ゴダール、であり、若松孝二は製作者としては全盛期ロジャー・コーマン、監督としてはアントニオーニ?(『性の放浪』を見よ!)というようなことで、が、しかし、沖島勲はたとえようがなかった。それが、デイヴィッド・リンチが円熟(逸脱?錯乱?)してきたおかげで、ようやくこう言えるようになったのか→“デイヴィッド・リンチが沖島勲に似てきた”。···デジタルの映像の時代に、遅れるでもなく追随するでもなく、単にビデオで撮影しました、というだけじゃなしに、現代の撮影現場で映像がもはやデータであることすら超える発想で、映像が電波の破片になって宇宙を漂ってる、とは!)

···と、まあ、なんのまとまりもないが、とにかくそういうことだ。

今度の一連の上映がなにを呼んでいるのか、どれだけのものを呼び寄せうるのか。もはや僕はつよく呼ばれている。旧作もDVDなんかで観ないで劇場に足を運んで、観たい。そこではきっと、あの『出張』で石橋蓮司が迷い込むゲリラ隠れ里のような体験、沖島ワールドが我々を待っている!

(2007年『沖島勲が語る/沖島勲を語る』より転載)