沖島勲の監督デビュー作『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』は、一組の見合い結婚が決まった若い男女と、結婚式の打ち合わせのため、彼らの親や叔父夫婦が山荘に集まる一夜の物語である。最初は気取ったにぎにぎしい会話をする両家の大人たちだったが、夜が耽るにつれ徐々にタガが外れていき、それぞれの秘めた欲望をあらわにし始めて、最後は大乱交に至ってしまう。
「若松孝二の助監督をし、足立正生とともに映画を制作した沖島勲」というイメージもあって、本作は一見、いかにも69年という時代性を背負った映画という印象を受ける。回想シーンなど含みながらも、ほぼ限定された室内で展開する、演劇的なワン・シチュエーションドラマの構成。また、当時のピンクならではのパートカラーとなったエロシーン以外、物語はまるで不条理劇のような滔滔とした独白や、互いの恥部をあばくディスカッションで進行するし、ブルジョワな一族の取り繕ったうわべに隠された欲望への、揶揄と批判の視点を見出すこともできるだろう。そして人生を投げたように見合い結婚に同意し、けだるくシニカルな態度を取り続ける娘。彼女に着眼するならば、自由な恋愛の中にも虚飾を感じ、失意と諦観に行き着く若い女性のペシミスティックな知性を描いているともいえる。二組の家族による乱交というセックスモラルへの挑発も、カウンターカルチャーへの支持があった60年代という時代らしさが漂う。
しかし、『YYK論争永遠の“誤解”』(’99)を観た後、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』を見返すと、まったく別の表情があることに気づく。そこにはすでに、沖島勲の類型的なスタイルがある。『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』は喜劇である。それも、ひたすら横滑りしていくコメディだ。
『YYK論争』は映画の撮影現場を舞台にし、映画内映画と撮影現場が巧妙にない交ぜにされた、不思議な群像喜劇である。俳優やスタッフたちの、なんでもない素っ頓狂な会話をそこらじゅうに散りばめ、群像スタイルの喜劇性を前面に打ち出した『YYK論争』を観ると、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』もまだ単純な造りとはいえ、実はよく似た、串団子状に挿話が連なる構成で作られていたのがわかる。だが、喜劇を自覚している『YYK論争』より、無意識なところで時代性に囚われた『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』の方が、よりいびつなコメディとなっているかもしれない。
確かに本作は、若松プロの流儀や前衛映画の影響をいやがおうにも受けた映画であり、モラルや虚飾への挑発が滲む作品ではある。観客側にも、「そういう映画である」という構えがあるだろう。だがそのために、沖島本来のとぼけた笑いが突拍子なく噴出した際、何が起こったかよくわからず、一見ちょっとした演出上の違和感と思えてしまう。
たとえば叔母から「結婚式に友人は何人呼ぶの?」と尋ねられた新郎となる青年は、不意に真顔で「友人···?」と呟いたまま愕然とした内省に耽ってしまうが、映画はそのことを流す。都市に暮らす青年の孤独といった深刻な描写にも至らず、すごい形相で考え込む青年を取り残し、スルーして次の場面に移る。また、彼が結婚相手である娘と林を散策し、彼女の結婚への冷めた諦観に触れたシーン。彼はそのあと一人で山荘へ戻りながら、自分の結婚についてブツブツと孤独に呟くのだが、唐突に「結婚すればさ···、何か、いいことあるぜー!!」と半泣きの表情で絶叫し、そのままカットは次の場面に変わる。笑っていいのかわからないのだが、意表を突くタイミングとセリフは沖島作品全体に漂う独特の魅力であるし、希望の言葉でありながら、結婚では退屈な日常を打破できない失意に満ち満ちていて、この真摯な叫びは決してただ笑っておしまいにできない、やるせなさが痛烈に響いてきて泣けてしまう。
この若い男女は決して共闘関係とならず、映画内でも交わることのない点のように存在するのだが、だが、最後に一瞬、彼らだけの同調が仄見える瞬間がある。
現代の映画で若者の不安を描くとき、大人の目線から見た不透明な存在か、同時代の作家が等しい目線で、些細な日常や、大人になりきれない稚拙な心情を描くことが多い。しかし、60年代の大島渚や若松孝二作品を観ていて強烈に感じるのは、若者が思い定める「決意」のあり方だ。『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』はさほど思想的でも観念的でもないし、中盤は大人たちの物語となって若い男女は脇に退くが、それでも彼らと大人たちの間には「虚飾」に関し断絶がある。
クライマックスのスワッピングシーンでは、閉ざされた空間で大人たちは狂態を見せ興奮のるつぼで我を忘れている。それは、日常で無意識の虚飾を重ねるゆえに、虚飾を剥ぎ取った後の反動的な痴態だ。だが、若者たちはそんな乱交のある瞬間、厳粛に向かい合う。青年は、服を脱いだ娘へ神妙に「用意はできた?」と尋ねる。娘は固い仕草でうつむき答え、二人はゆっくり、ゆっくり動く。彼らは乱交に参加しながらも、狂乱に浮かされるのではなく、狂乱に意識的に身を投じる。若い二人にも虚飾はあるだろうが、その自らの虚飾に自問自省の念があるがゆえに、獣じみた忘我もない。
最後、高みよりどこからともなく聞こえる声。「誰も見ていないぞ、誰にも見せないぞ」。しかし誰の目はなくとも、自己の眼がある。自身のまなざしによる自覚だけが、虚飾の衣を軽くしてくれる。これは、笑いと自覚の映画なのだ。
(2007年『沖島勲が語る/沖島勲を語る』より転載)