『したくて、したくて、たまらない、女。』モルモット吉田(映画評ブロガー)

沖島勲にとって『ニュー・ジャック&ヴェティモダン夫婦生活讀本』(’69)以来27年ぶりのピンク映画となった「したくて、したくて、たまらない、女。』は、温泉旅館を舞台に、そこで日常を営む人々の何でもない時間と、そこに漏れこんだ非日常の怪異を軽妙な味わいで描いた作品だ。

温泉旅館や温泉街を舞台にしたピンク映画は、本作のプロデューサーを務めた渡辺護の「(秘)湯の街夜のひとで』(’70)や、沖島が助監督を務めた足立正生の『性地帯セックスゾーン』(’68)といった作品の頃から作られているものだけに、久々にピンク映画を撮るというのに、目新しさに欠ける作品を撮るものだと思ったが、『ニュー・ジャック&ヴェティ』にしてもそうだが、60年代後半の若松プロを支えた助監督が満を持して放つデビュー作としては、いささか軽すぎるように思えてしまう。しかし、その軽妙さこそが沖島勲なのだと、最新作『一万年、後….。』(’07)を観た後には、本作も含めたその一貫した変わらなさを感じずにはいられない。沖島は、『したくて、したくて、たまらない、女。』を撮るにあたり、「(予算の)サイズに合った内容と仕事をやろうと思った」と述べている。撮影日数3日、製作費300万のピンク映画に、大層なテーマを詰め込んで撮るのは理解できないと言うその姿は、最も過激な時期の若松プロで、限定されたテーマ(権力への憎悪と復讐)を先鋭化させて量産していく過程に携わった者だから言える、ピンク映画の可能性と限界を知った上での発言に思える。

その上で、再び自らピンク映画を手掛けるに当たっては、ウェルメイドなシチュエーションを設定し、舞台を温泉旅館内にほぼ限定させることで、撮影にあたっての移動を少なくし、カットを丁寧に割り、女優が映える照明をあてて充実した画面を形成することに力が注がれている。開巻間もなくの、脱衣所で岩磨きに精を出す番頭(室田日出男)と、着替えようとする女中二人との切り返しでも丁寧にアップを拾い、露天風呂での岩の隙間から見える謎の女の姿や、立ち上がる仕草をアクションをダブらせて繋ぎ、滴り落ちる水滴の艶かしさを際立つように見せるなど、無理なスケジュールを前提にした作りでは振りきれなかったであろうショットが、映画を豊かにしている。一方で、笑いながらも、これは何だろうかと思うシーンがある。室田が、手拭いで体を隠しつつ立っている謎の湯上りの女を見た時、室田と女を均等な切り返しで見せていくが、女が手拭いを払い全裸となるや、カメラは女の股間にズームし、と同時に画面は白飛びの光で股間を隠す。室田は眩しさに顔を覆いながらも茫然と股間を眺めるのを数コマの短さで十数回も股間と室田の顔を交互に見せるという手法が取られているが、それまで安定したショットで見せてきた中で、こういった手法が突如現れることには驚いたが、下手をすれば安易な印象を与え、それまで丁寧に撮られてきたものが壊れかねないと思うのだが、神々しく股間が光ってそれを見て驚くんだからこうなるんだ、とでも沖島は平然と言うのではないかと思える位、堂々とやっているので、驚きつつも受け入れることができてしまう。又、室田がその女と交わるシーンで、行為の最中に突如大阪弁になるというのも奇妙だ。女は「あら、大阪弁になったの」と尋ね、室田は「若い頃、大阪に居りましたんや」と答えるが、このシーン以外でそれが語られることもなく、あの場で唐突にそんなことを言い出すので笑ったが、『一万年、後….。』でも健在な沖島のとぼけたユーモアの真骨頂ではないだろうか。登場人物の関係性を活かした上で、各々にカラミを用意してしっかり見せる本作は、ピンク映画のお手本のような作りだが、温泉旅館に夜な夜な謎の女が現れたというだけで終わっても十分ウェルメイドな佳作になっただろうが、後十数分で映画が終わろうかという時、この作品は突如大きな飛躍を見せる。その飛躍を担ったのが、黒沢清であるということが面白くてたまらないが、坂道を下って旅館にやってくる黒のコートを着込んだ雑誌記者を演じる黒沢を見ていると、前述の『性地帯セックスゾーン』のラストで温泉街にやってくる松田政男を想起させるが、田山秀之の『東京から遠くはなれて』(’78)を観た者は、黒沢が演技者として長時間画面に滞在することが可能な映画俳優の一人であることを知っている。それだけに、終盤の十数分が黒沢清主演の怪奇映画と化すことに驚きつつも感動的に見入ってしまう。黒沢と室田が向き合って演技するという奇妙な光景もさることながら、温泉旅館、息子を溺愛する母、自転車を二人乗りで走るといった要素に、黒沢の初登場シーンが坂道を下ってくることも含めて、これはまるで市川崑の『悪魔の手毬唄』(’77)だと個人的には興奮してしまうのだが、怪奇映画の手法に則った演出に、黒沢が狂言回しに相応しい顔つきで真相を追うものだから、映画が大きく飛躍するのも当然で、それまでの旅館内にほぼ限定された空間から一転、夜の山道を自転車で女を追って走ることで一気に空間が広がっていくのが素晴らしい。更に山には女の「したいよー、したいよー」という声まで響くのだから、性を恐怖の地点にまで昇華させた忘れ難いシーンとなっている。クライマックスの走っていく女のロングショット、逆光で走ってくる女をとらえたショットの美しさなど、終盤に至って「サイズに合った内容と仕事」どころか、映画がどんどん枠組みを超えて大きくなっていくのを感じる。

ウェルメイドなピンク映画として高い完成度を保ちながら、そこに収まりきらずに怪奇映画としての魅力をも併せ持つ本作は、公開から十年以上経った現在から見れば、ピンク映画史の象徴的作品であり、現在の日本映画を予感させる映画であることが分かる。若松プロ出身の沖島が、若松孝二同様60年代からのピンク映画を体現する渡辺護のプロデュースで27年ぶりにピンク映画を撮り、出演者の中には90年代のピンク映画を代表する女優、葉月蛍もいる。そして、80年代に『神田川淫乱戦争』(’83)商業映画デビューを果たした黒沢清の姿まである。同じピンク映画に係わりを持っていても、交わることがないと思われる人々が、フトしたきっかけで同じ映画にクレジットが並んでしまう映画の魔力がここにある。更に本作の突出した撮影を担ったのは、若松作品の大半、そして『ニュー・ジャック&ヴェティ』の撮影を担当した伊東英男に師事していた芦澤明子だ。ここにも因縁の映画史を感じるが、本作を契機として、芦澤は『YYK論争永遠の“誤解”』(’99)、『一万年、後….。』の撮影も担当している。そればかりではなく、『LOFT』(’05)『叫』(’06)では、本作の出演者、黒沢清と今度は監督と撮影者の関係で幽霊描写を更に突き詰めることになる。本作の終盤には、病院のベッドで背中を向けて決して顔を見せずに横たわる女を撮った恐ろしい映像がある。これを観て黒沢が、『LOFT』でミイラを撮るには芦澤が相応しいと判断したのかどうかは不明だが、本作以降『UNloved』(’02)など、黒沢と近い関係の監督との仕事があったことも影響しているのだろうが、最初の出会いが本作にあったことは、ピンク映画の多様性がやがては一般映画で結びついた好例と言えるのではないだろうか。終盤にしか登場しないが、最も場所移動の多かった黒沢は、最初から最後まで現場に居なければならなかったと言う。他人の撮影現場に居る映画監督ほど手持ち無沙汰なものもないであろうから、黒沢は専らスタッフの動きを見ていたのではないだろうか、などと、どこまでも想像を進めてしまうのも、この作品がそういった奇妙な繋がりで結ばれた作品だからだ。そう考えると、『一万年、後….。』で、沖島作品の象徴である〈母〉を演じるのが、黒沢作品のミューズ・洞口依子であることは、あまりにも出来すぎた偶然と言わざるを得ない。そういった偶然なのか必然なのか、沖島作品の奇妙な味わいは、本編だけでなく現実をも侵食し、広がっていく。『一万年、後….。』の劇中で、映画監督だったという男が自分の撮った映画だと言って見せるのは、『ニュー・ジャック&ヴェティ』だ。現実と映画の境界は消滅していく。本作に登場する謎の女が何を職業としていたかを耳にした時、そこにはやはり現実への侵食を感じずにはいられなかった。映画を日常に漏れさせてしまう沖島勲は恐ろしい。

(2007年『沖島勲が語る/沖島勲を語る』より転載)